死のう死のうとかねがね思ってきたが、かといってそう簡単に死ぬきっかけなど見つかる訳もなく、ましてや容易な理由で死ぬほどつまらないものはないと思っているうちに、こんなにも時は経ってしまった。
だがはたして人の死の理由などは概して単純なもので、ましてや生きる理由もわからぬのに死ぬのに理由がいると考えるほうが可笑しいのである。死にどんな理由であるにしろ、他人から見れば下らぬ事なのである。
人間誰しも傲慢なものであるが、それを肯定し続け、たどり着くのは死でしかありえない。
生きることに意味があると信じる者にとって、自分が矮小な一構成要素と認めざるを得なくなったとき、死とは唯一の選択であり、最後の抵抗と言えるだろう。

そもそも幸せな生活などという物に興味はないのだという熱情が、これまで私を動かし続けた。その思想がいつ、どうしてできたのか、定かではない。だが私はそう考えることにより、人より優越感を感じさえした。しかし今では、それは幸せに対する羨望と嫉妬に駆られる私という存在の自己否定の元でしかない。
どこまでも人間らしい自分に嫌悪を覚える。
このまま生き続けるのであれば、人間としてどのような幸せな生涯を送ろうとも、必ずや敗北感が私に付きまとうだろう。そう感じる限り、私はこれからの生というものに興味も、期待も、いやそもそもその存在すら信じることはできない。

私が、どうしてこんなにも傲慢になってしまったのか。必然だったのか。ここから消え去ってしまえば、その答えがわかるのだろうか。


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